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ちょっと気になる話㉑大化の改新

蘇我氏の横暴が目に余るようになり、手が付けられなくなると、宮廷内に不満の声が上がり出す。そこに立ち上がったのが、中大兄皇子である。皇子は中臣鎌足と組んで、宮廷クーデターを起こす。宮中で蘇我の入鹿を殺害する事件を起こす。これを大化の改新と呼ぶ。 皇子の母である第35代皇極天皇は、弟の第36代孝徳天皇の後に、再び即位し第37代齋明天皇となっている。これも蘇我氏が、権力を振るうのに都合のよい天皇を即位させたからである。第38代天智天皇は即位すると、蘇我氏を滅ぼした。蘇我氏に代わって権力を手に入れたのが、中臣鎌足改め藤原鎌足である。以後、藤原氏が天皇家の外姻戚になっていく。

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ちょっと気になる話⑳蘇我馬子の横暴

天皇家の外姻戚として、蘇我氏は権勢を振るう。その中でも馬子の横暴は目をみはるものがあった。馬子は欽明天皇の皇子を殺害しただけでなく、第32代崇峻天皇までも殺害しているその後釜に、第33代推古天皇を擁立した。推古天皇は女帝で、蘇我氏と姻戚関係にあり、かなり気を使っていたが、完全に言いなりになっていたわけではない。甥にあたり娘婿である聖徳太子を摂政にすえている。 聖徳太子はその聡明さゆえ歴史上郡を抜く名君として知られている。但し、聖徳太子に関する逸話の多くは、後世の作り話といわれている。またウマヤドノミコといわれた人物に、多くの皇子の業績を重ね合わせた、とも言われている。聖徳太子は仏教伝来をめぐっ...

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ちょっと気になる話⑲推古天皇

推古天皇は日本初の女帝として有名だが、継体天皇の孫に当たる。父も叔父も兄弟も皆天皇になっている。(安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻)推古天皇の夫は敏達天皇で兄である。そのためか子供がいない。推古天皇の摂政を勤めた聖徳太子は、弟用明天皇の子供である。推古天皇らの活動場所は、奈良にあった。このとき、都が奈良飛鳥にあったことは確実である。この頃の天皇家と深い姻戚関係にあったのが、蘇我氏である。物部氏は、聖徳太子の仏教伝来の時に退けられる。

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ちょっと気になる話⑱継体天皇

継体天皇は応神天皇から数えて5代目の孫に当たる。武烈天皇から皇位を継承したのか、奪ったのか。継体天皇は仁徳天皇の弟の子孫ということになっているが、真偽は怪しい。継体天皇の祖先は、中央における権力闘争に敗れ、大阪を離れて越前に拠点を構えていた、とされる。河内王朝の血なまぐさい権力闘争の末、政権をまとめられる実力者がいなくなったのだろう。有力な後継者として、越前から継体天皇がやってきた、武烈天皇を殺して政権を奪った。この時、都も大阪から飛鳥に移したと思われる。しかし飛鳥にも有力豪族が住んでおり、すぐに飛鳥に入ってはいない。継体天皇が武烈天皇の姉を皇后にしているのは、前政権の後継者としての正当性を訴...

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ちょっと気になる話⑰雄略から継体天皇へ

古事記や日本書紀には、時代の重なる記述がある。雄略天皇の朝鮮派兵と、継体天皇の派兵である。どちらが正しい歴史なのか。どちらも、百済を助けるために派兵し、高句麗に敗れている。大阪河内から、騎馬民族由来の馬具、土器、住居跡が見つかっている。渡来人の拠点があったことがわかる。継体天王は、福井県三国出身とされる。三国とは、東尋坊の近くである。ここは今も良港として知られている。つまり、海の彼方から継体天皇はやってきた。

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ちょっと気になる話⑯第21代雄略天皇

応神天皇から仁徳へと続く王権を河内王朝と呼ぶ。大阪を拠点に仁徳の子供の履中、反正、弁恭が天皇となる。その孫の顕宗、仁賢、安康、雄略も天皇になる。仁徳の孫の代になると、激しい権力争いとなり、兄弟同士の殺し合いとなる。最終的に、雄略が親族をことごとく滅ぼしてしまう。さらに外戚関係の葛城氏をも滅ぼす。その罪滅ぼしが、葛城氏が祭る豊受大神を祭神とする外宮建立であろう。

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ちょっと気になる話⑮第15代応神天皇(河内王朝)

応神天皇こそが初代の天王(当時は大王)であろう。応神天皇が支配者になる前にいた地元の支配者、それが大国主命のモデルとなった人物であろう。この人物の子孫たちの歴史が、神武から14代までの系譜に現れているのだと思う。この時代は三輪王朝と呼ばれている。応神天皇は三輪王朝を滅ぼして大王の地位に着くが、あたかも三輪王朝の子孫として王位を継承したかのように、言い伝えたのだと思う。天孫降臨の地(海外から日本に上陸した土地)は、出雲だったのではないか。出雲に上陸し、先住政権を倒し、北九州に拠点を構え、東征を開始した、というのが真実の歴史だろう。 河内王朝の都は大阪であった。ここに、応神天皇陵、仁徳天皇陵、履中...

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ちょっと気になる話⑭神武東征のルート

神武東征ルートを眺めていると、実際の国家統一の足跡がたどれる。神武は高千穂に降臨して、宮崎日向灘から船で宇佐宮を経て、北九州の岡田宮に入っている。ここまでの足取りは、架空の話だろう。なぜなら、高千穂から日向までの陸路は険しく、その後の道のりは全て海路である。山を踏み分けていけるほどの山岳民族なら、その後の足取りもまた山道をたどるはずである。だから実際は、海路で北九州に上陸するところから本当の歴史は始まるのだろう。 ではどこからやって来たのか。朝鮮半島から来た、と考えるのが妥当だ。船を扱うのに優れた集団だからである北九州を出発して、次の拠点を広島に構える。ここでしばらく過ごし、次の拠点を岡山に構...

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ちょっと気になる話⑬神武天皇の不思議

一体どの天皇から実在したのか。神武天皇が実在したとは考えられない。陵のある応神天皇から、実在が確認できる。神武天皇はイザナギノミコトから数えると、七代目に当たる。神武天皇の姿は、地上の人間よりも神の姿に近い。頭から角が生えており、全身が鱗に包まれている。まるで龍か恐竜のような姿だ。ここからきわめて人間らしい姿をした応神天皇までに、十四代の架空の天皇を間に挟む必要があったのだろう。自分の祖先や自分が制服した相手の大王の履歴に基づいて、架空の天皇像を創りあげたと思われる。それが口伝の古事記となった。王権の正当性と、侵略の正当性を証明するために、神の子による支配としたのだ。

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ちょっと気になる話⑫神武天皇が誕生するまで

天孫降臨したのは、ニニギノミコトである。そこで国津神の子孫であるコノハナサクヤヒメと結婚し、海幸彦と山幸彦を産む。山幸彦はトヨタマヒメと結婚し、カムヤマトイワレビコノミコトを産む。その子供がタマヨリビメノミコトと結婚し、カムヤマトイワレビコノミコトを産む。彼が後の神武天皇である。神武天皇はニニギノミコトの曾孫、天照大神の玄孫である。天孫でありながら、天皇(のちにそう呼ばれる)つまりは地上の大王となるまでに四代かかっている。それだけ国津神たちの抵抗が激しかったことを意味する。当時の先住民は強かったのだ。最初の拠点(たぶん北九州であろう)を築き終わると、東征を開始する。つまり東に向かって侵略を開始...

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